hiroto-o's diary

とある大学の大学院博士課程を何とか卒業して、とある金融の仕事をロンドンでしています! リンクはご自由に♪ メールはhiroto_o20[at_mark] hotmail.comまで。([at_mark]は@に置き換えてね)

東北一人旅1日目@南相馬

日本で夏を迎えるのはここ数年しばらくお預け。なので大学時代に住んでた仙台に行くことにした。
そして仙台に行く前に南相馬を訪れた。
知人が住んでいて時々行ったことがあることと、この時期に野間追祭りがあること、個人の復興ボランティアを受け付けていることが理由である。ちなみにその知人は避難して県外にいるそうだ。また、別の知人が既にここでボランティアをしていたこともあり、何となく行きやすかったのも理由。
前日に夜行バスで東京を発ち、未明に福島駅へ。駅前のコンビニで腹ごしらえをした後、再び南相馬まではバスに乗る。
福島市内では、所々屋根がブルーシートで覆われていたり4ヶ月以上経った今もなお、地震の爪跡を残していた。
浜通りの6号線沿いも、漁船が未だに流されたままになっていた。


南相馬市内に着く。まだ朝にも関わらず既に暑い。なるべく日陰の道を選んでボランティアセンターへ行った。敷地を少し入っていくと受付がある。経験者と初めての人で別々の列に並ぶ。
僕を含めた初回の人が多い一方、経験者はここだけで既に5回以上来ていたり、岩手県まで行っている人もいる。
受付で自分の特殊スキル(僕の場合は、金融の資格とかExcelのVBAやプログラムとか、、全然役に立たないものばっかり)と、
ボランティア保険を持ってるかどうか(無ければその場で申し込む)を紙に書く。
その後自分の希望する作業を選び、人数バランスなどを考慮して最終的に決まる。


僕は津波に遭った家の中から家財を運び出すグループになった。
ここ南相馬では、原発の所為で市外から帰ってきていない人がまだ多く、津波に襲われたまま手付かずになっている家が多いという。ボランティアセンターの人から注意事項を聞いて支度をする。怪我をしないように長袖を着てきたのは正解だった。作業用長靴、防塵マスクは自分でも用意していったが、共にセンターにも準備されてた。
現場には車3,4台で向かう。津波に全て浚われてしまった場所は既に雑草で覆われて、一見すると昔から空き地だったようにも見えてしまう。


現場の家は基礎から外れて3mほど押し流されていた。家は崩れておりこれが現実なのかと状況を飲み込む間もなく作業は始まる。
missionとしてはアルバムやまだ使える食器などを取り出すこと。紙で保存してある写真は破らないように気をつけた。
運び出すものには勿論流されてきた泥や木もあるのだが、布団や玩具とか日常用品もありそこには確かに少し前までの生活が存在していて、ひとまとめに瓦礫と言うのは憚られる。壁に掛けられたカレンダーは3月のままだった。


作業は午前10〜午後4時まで。この日は東北の海沿いの南相馬でも最高気温が30℃を越える真夏日だったので、1時間おきに休憩を取り水分も十分に摂った。
マラソンもやっていてそこそこ体力の自信はあったのだが、かなり力を使う作業で終わったときには体力も筋力も全て使い果たしていた。しかし、アルバムなど相当見つけ出し、また家も随分と片付いたのを見ると、意味のあることが出来て良かったという気持ちが強い。最後に家の人に挨拶して、ボランティアセンターに戻り、一緒に作業したボランティアの人やセンターの人たちに挨拶して解散。


僕は原ノ町駅前のホテルに予約していたのでそこまで歩く。ホテルのロビーで辿り着くと、さっきボランティアで同じチームだった人(M氏)が泊まっていて、今夜お祭りがあるので一緒に行こうという話しをする。


シャワーを浴びて一息ついてテレビを見ていると天気予報と共に各地の放射線量の放送されていた。ここ南相馬は海側の放射線量は低いものの山側では(年齢にもよるが)無視できない。普段の食べ物にも気を配る必要があるだろう。


夜のお祭り − 火祭り − は、原町第二中学校で行われた。もともと野間追いに参加した甲冑侍を火の玉で迎える儀式で、例年は南相馬市 南部の小高(おだか)地区で開かれているものだ。しかし、今年は原発から20km圏内に入ってしまい小高地区の人でここ南相馬の中央部の原町地区に避難している人が多いのだという。


校庭に、学生が作ったろうそくの燭台を「絆」と「願」の字に並べて火を点す。

ここの体育館はボランティアの人の宿向けに開放しているそうで、先ほど会ったボランティアの人たちと再び会った。


そして、祭りのメインである火の玉が点される。まるで生きているが如く煌々と燃え盛る炎。この火の玉に、今年はいろいろな想いが宿っているように感じた。この日は隣の相馬市でも祭りをやっているようで大きな花火がここからも見えた。


そのあと、M氏と夕食&一杯やるために駅前ホテルの近くの居酒屋へ。M氏が以前も訪れたというお店へ。夜9時を回ると近くのコンビニは時短営業で閉まってしまう。しかし、居酒屋のお店の中は明るく人で賑わっていた。我々はカウンター席に座った。店主もM氏を覚えていて多くのことを話した。現在の状況の中、お店をやっていくのは容易いことでは到底ない。しかし「遠くから来てもらえるボランティアの人たちの憩いの場になってもらえれば」という店主の言葉が印象的だった。ここ南相馬は電気、ガス、水道などのインフラは、津波に襲われていない地域では復旧している。しかし、それでもなお物流は制限されており、何よりも一瞬で親しい人を失った人々の心の傷は深い。心理的なケアは復興に向けて重要になってくるだろう。
会う人会う人にとても温かく迎えてもらい、それをとても強く感じる。


僕の隣の席には雑誌・インターネットで報道活動をしているグループが来ていた。TVや新聞が報道する前から、いち早く地震の現場に入り、生の声、生の状況を伝えている。現地の様子については彼等の記事を読んで頂きたい(2011年9月8日追加)。


結局、この日は夜中1時くらいまで飲んでいた。